カテゴリー「書籍・雑誌」の14件の記事

弁護側の証人:小泉喜美子

ミステリーファンの間では古典的名作として名高い作品。

文庫本で復刻されたと聞いていたのですが、出張先の東京の書店で偶然発見し、早速買ってみました。

読んでみると大納得。一発で作品に魅了されました。

旧家の離れで起きた財閥当主の殺人事件。

主人公はその家の御曹司(後に分かりますが、実は相当の放蕩息子)に嫁いで来たばかりの妻。

物語りは、一審で死刑判決が言い渡された後の、拘置所での夫婦の面会の場面から始まります。

金網越しの短いキス。

「控訴だってどうせ同じだ。今となって、ぼくらになにができるというんだ」と投げやりに全てを諦めようとする夫。

そんな夫を前にして、「澄んでさびしげな光をたたえているあの眼」「あれが人を殺した男の眼だろうか」と複雑な思いを抱きつつも、「まだ控訴も上告もあるわ。わたしは決して諦めない」と気丈に振る舞う妻。

冒頭部分から強い緊張感が伝わってきます。

そして妻は、一審の裁判中に気づいたある事実から真犯人の手掛かりをつかみ、新しい弁護士に依頼して真犯人探しを始める・・・というのが主なストーリーです。

章ごとに、三人称で2人の出会いから結婚、事件に至るまでの経過を客観的に記述するパートと、一人称で主人公が事件前までを振り返るモノローグ形式のパートが交互に繰り返され、それによって、登場人物相互の関係や被害者及び財閥を巡るそれぞれの思惑、関係者の間に沈殿する複雑な情念などが少しずつ浮かび上がります。

実は、この叙述形式にも作者の工夫があるのですが、読者はひとまず、どろどろとした情念の世界に引き込まれます。

誰が当主殺しの真犯人なのか・・・。

それをどう証明するのか・・・。

「弁護側の証人」とは一体誰なのか・・・。

物語の緊迫感が最高潮に達したところで、いよいよクライマックスの控訴審へ。

ここで、いわゆる大どんでん返しが待っています。

天地がひっくり返るような驚き、あるいは、崖の上に立たされているときに足元の崖が砂になってさらさらと崩れていくような喪失感、そんな感覚に一挙に突き落とされました。

なるほど、そういう訳か・・・。

そう言われてみると、巧妙な伏線が幾重にも張り巡らされていたことに、後になって気づかされます。伏線の余りの巧みさに、もう一度最初からほとんど読み返したくらいでした。

更に驚きなのは、この本が書かれたのは昭和30年代だということ。今も全く古さを感じないばかりか、トリックの巧みさは現在でもむしろ目新しさすら感じさせます。この時代にこんな意欲作を書いていたなんて、作者は天才ですね(ただ、残念なことに1985年に逝去されているそうです)。

読みやすいので通勤電車でもすぐ読めます。是非、ご一読を。

向日葵の咲かない夏:道尾秀介

久しぶりに背筋がゾ~ッとする感覚を味わった1冊でした。

主人公は小学4年生の男の子。その割りには大人びた口調での一人称で物語りは綴られます。

一学期の終業式の日、主人公は学校を休んだ友だちS君の家に荷物を届けに行きますが、そこで、S君の首つり死体を発見します。

慌てて家に戻り、先生に伝えますが、先生と警察官がS君の家に行ってみると、死体は忽然と消えていました。

といったあたりが物語の導入部分です。この導入自体かなり衝撃的ではありますが、まあ、ミステリー小説としては、なくもないかなと言ったところです。

しかし、物語はそこから意外な展開を見せます。

主人公と、主人公に輪をかけて大人びた話し方をする3歳の妹、そしてもう1人の登場人物の3人による死体隠しの犯人捜しが始まるのですが、3人それぞれについて、そしてそれ以外にも少なからぬ登場人物について、読者の心には奇妙な違和感または謎が植え付けられていきます。

犯人捜しが縦軸、登場人物の謎にまつわるエピソードが横軸になり、それが複雑に絡み合いながら物語は進みます。

そして、最後にそれが一本の糸のようによりあわされたとき、隠された驚くべき真実が忽然と浮かび上がります。

終盤は怖い物見たさでどんどん読み進んでしまいましたが、読み終えたときには、人間の狂気や、人の心の闇の深さを見せつけられたような気がして、氷のように心が凍える思いがしました。

それと同時に、これはミステリー小説ではなくてサイコホラー小説なのだということを理解しました。

物語の端々にちりばめた伏線を最後に見事に収斂させているところや、空想的な場面と現実の世界とをうまくシームレス交錯させて描いているところなど、筆者の構想力、表現力は本当に見事だと思いました。別の作品も是非読んでみたいですね。

皆さんもご一読下さい。でも、どちらかというと冬よりも夏の夜にでも読む方がお勧めですね。

テロリストのパラソル:藤原伊織

以前の記事(人間失格:太宰治)にコメントを寄せていただいた方が紹介してくださった小説です。

史上初めて、江戸川乱歩賞と直木賞を同時受賞したという日本版ハードボイルド小説だそうです。

いわゆる全共闘世代の主人公が、20年の歳月を経てアル中のバーテンダーに身をやつし、ある日曜日にいつものように近くの公園に行って朝からウィスキーの小瓶をあける・・・という場面から物語りは始まります。

状況説明もそこそこに、突如として公園でおこる大規模爆弾テロ事件。

かろうじて難を逃れた主人公が見たテレビニュースで、その事件の被害者として、20年前の「同志」だった2人の名前が目に飛び込んできます。

全共闘時代の3人の「同志」の、20年に及ぶ数奇な人生の歩みがある日ある時間にある公園で1つに交わったという偶然。

主人公がその謎を追ううちに、思いもかけない真実が明らかに・・・というお話です。

私はいわゆる全共闘世代よりは少し遅れて大学に入学しましたが、私の頃も大学の寮にはまだ学生運動の残照的な雰囲気が残っていました。そのため、恥ずかしながら、全共闘の時代にはちょっとしたシンパシーを感じています。

あの時代に、ある意味1つの信念に燃えて燃え尽くした人たちが、その後の人生をどんな気持ちで送っているのか、興味があるところです。それぞれにあの時代を引きずり、又は忘れるよう努めながら生きて来られたのでしょうか。

この小説で描かれた3人の生き様は、きっと、そんな全共闘前後の世代の方々の共感を得たのだろうと思います。

それにしても、作中に登場人物の作として紹介される短歌

「殺むるときもかくなすらむかテロリスト蒼きパラソルくるくる回すよ」

は、本当に悲しい歌ですね。作中でのこの歌の作者(誰がいつ詠んだのかはネタばれなので言えませんが)の気持ちを思うと、本当に切なくなります。この作品全体を象徴するような、とても印象的かつ効果的な短歌だと思います。

どこに出てくるのか、是非、作品で確認してみてください。

作者の藤原氏は残念ながら2007年にガンで逝去されておられます。

ご自身の人生も波瀾万丈だったようで、作品中の主人公の生き方に重なるものがあったようです。

ユージニア:恩田 陸

恩田さんは仙台市のご出身らしく、年代的にも私とほぼ同年代なので、注目している作家の1人です。

この「ユージニア」はかなり面白い作品です。

北陸の町で数十年前に起きたある大量殺人事件について、関係者が一人称で語る内容が物語りの中心をなしています。

殺人事件の動機・背景・手口、そして何よりも「誰が犯人なのか」ということについて、多くの関係者がそれぞれに記憶を辿り、事実と推測を交えて語る中から少しずつ真実(らしきもの)が浮かび上がるという手法です。

印象的なのは、中心的な人物として多くの人の口から語られる1人の少女です。

若い年代の女性の持つ美しさと、それに伴う神秘性や冷たさ、残虐性などを強くイメージさせるもので、実際に彼女を見ていない読者も、彼女の姿をそれぞれに映像として脳裏に刻み込まれていくようなビジュアル感を感じます。

彼女を巡る悲喜こもごもの伏線が、複雑に絡まって物語の中に随所に現れ、人の心の光と影を微妙に描写していきます。

「六番目の小夜子」もそうでしたが、恩田さんは、美しく神秘的で、かつ、冷え冷えとした怖さを感じさせる少女をリアルに描くのがとてもお上手ですね。

400頁超の長編ですが、引き込まれてあっという間に読み終えました。

是非ご一読を。

容疑者Xの献身:東野圭吾

平成17年に直木賞を取り、昨年映画化もされた小説です。文庫化されたので読んでみました。

東野圭吾さんの小説は初めて読みましたが、簡明な文章でストーリー展開も分かりやすく、あっという間に読み終わりました。

タイトルのとおり、ある事件の容疑者の献身的な行動を描いたものです。

始めから犯人が分かっており、それを追いかける刑事及び探偵の行動と、何とかそれを振り切ろうとする犯人側の行動とが併行して描かれています。このパターン自体は良くあるところで、読者も探偵側がどうやって犯人側のトリックを崩すのかに意識を集中していく訳ですが、最後にあっと驚く仕掛けが待っています。

私も、まさかの結末に衝撃を受けました。というか、自分も犯人側の立場を全部を分かったつもりで読んでいたのに、その盲点をかいくぐって更に仕掛けを仕組んでいた作者の手腕の巧妙さに感動しました(あまり書くとネタバレしそうですが)。

改めて最初から読んでみると、確かにそういう伏線はきちんとところどころにちりばめてあるんですよね。本当に感心します。

結末についてはすっきりしないというご意見もあり、賛否両論のようですが、とにかく最後まで引き込まれて面白く読めます。

是非ご一読を。

私も、次は「手紙」なんかを読んでみたいですね。

ノルウェイの森:村上春樹

若い頃、村上春樹さんの小説はすごく流行っていましたが、当時の私には何かトレンディーすぎるように感じられ(へそ曲がりなもので)、読む気がしませんでした。

最近になって少し読むようになったところです。

そんな訳で、有名なこの作品も、つい最近読んでみました。

全編を通じて、「死」や「喪失」が大きなテーマになっています。

人は誰も心の中に大きな喪失感を抱え込み、それと必死に向き合いながら、そしてそれを埋めてくれる誰かを求めて、生きていくしかない存在であるということを感じさせられます。

象徴的なのが4人の女性です。

「直子」のはかなさ、「ハツミさん」の真っ直ぐさ、それとは対照的に一見奔放そうにも見える「緑」の生きる力の強さが印象的です。

そして、ある意味でそれらを統合したような存在、迷いや苦しみ、その底にある希望などを、優しさでくるんだような存在が「レイコさん」なのではないかと思いました。きっと、この人が一番現実の人間像に近いものとして描かれているのでしょう。

主人公が一番心を開いた相手が「レイコさん」だと思いますが、それは男女を超えた人と人との心の結びつきを象徴しているように思いました。

性描写の場面などには賛否の意見もあるようですが、私は名作だと思います。若いうちに読んでおけばまた違った感情を抱いただろうと思うと、少し残念な気がします。

火車:宮部みゆき

自己破産や借金に悩む人の実像を描いた小説として、以前から弁護士内では面白いと評判の作品です。

物語は怪我で休職中の刑事が、親戚の男性から、行方不明になった婚約者を捜して欲しいと依頼されるところから始まります。

刑事が婚約者の行方を探るうちに、借金に追われ泥沼にはまっていく人間の弱さと、取り立ての凄惨さが浮き彫りになっていく・・・というストーリーですが、丁寧な取材に裏付けられていて、非常にリアルな小説だと感じました。

ストーリー展開にスピード感もあり、文庫本で580頁ほどの長編でしたが、あっという間に読み終えました。

この小説が書かれたのは平成4年ということで、ちょうど私が弁護士登録した年です。

その少し前の昭和の時代に、「サラ金地獄」が社会問題になり、昭和58年にはいわゆる「サラ金規制法」も施行されるなど、消費者信用の問題がクローズアップされつつある時代でした。

貸金業者の苛烈な取り立てに対して、弁護士が自己破産という手段で対抗し始めたのもその頃(昭和58年頃)からだと思います。

しかしながら、その当時は自己破産に対する誤解や偏見も根強く、自己破産すると普通の社会生活ができないのではないかと心配して結局誰にも言えずに苦しんでいた方々が大勢いらっしゃったと思います。

私が仙台弁護士会に弁護士登録した平成4年頃は徐々にそのような誤解も解消されつつあり、自己破産手続もその後に次第に簡略化されていったことから、その後は自己破産の件数はうなぎ登りとなっています(最高裁の統計によると、平成4年が約43,000件だったのに対して、平成18年度は約165,000件です)。

弁護士会や司法書士会、民間の団体など、クレジット・サラ金問題に取り組んでいるところも増えていますので、現在ではこの小説の頃よりは借金問題に対する対処の仕方は一般の方にも知られるようになっていると思います。弁護士が入った場合には業者側も取り立てを控えるなどのルールも徹底されてきました(私が弁護士登録した頃は、受任通知を出しても平気で取り立てをしている業者も少なくありませんでした)。

しかし、そうなると今度は「ヤミ金」が跋扈するなど(少し前には、商工ローン業者の「目ん玉売れ」などの取り立ても問題になりました)、どんどん新手が現れてきます。

現在でも、この小説に近いような苦境を強いられている人はまだまだいらっしゃるのかも知れません。

何かが規制されたり、対処法が確立すると、今度は別な手口が現れる、そしてまたそれに対する対策を練る・・・。そんなイタチごっこが繰り返されるのは、残念ながら人の世の常なのでしょうか。

本題からそれましたが、とても面白い小説ですので、是非ご一読を。

きよしこ:重松清

久々に胸に突き刺さる本でした。

吃音という障がいを持つ1人の少年の心の成長を描いた物語です。

少年が小学校1年生から高校を卒業するまでの間のいくつかのエピソードを、それぞれの物語にした短編集という形式になっています。

はじめの方こそ、障がいに伴う激しい心の揺れが描かれる場面もありますが、全体としてはとても落ち着いたトーンで、ことさら少年の葛藤や苦悩を際だたせることもなく、障がいに伴ういろいろな問題を浮き上がらせるわけでもなく、少年がいろいろな人との出会いの中で、あるがままの自分を受け止めて自立していく様子を静かに静かに描いています。

障がいのあることは(辛いことではあるけれども)決して特別なことではなく、世間から同情されるようなことでもなく、それぞれの人間の個性の違いと同じようなものとして、自分自身が受け止めていくしかないのだというメッセージが込められているように感じました。

私たちもみな、何らかの弱さや悩み・苦しみを抱えて、どうにかそれと折り合いを付けながら生きています。主人公の少年が抱える障がいとは比べようもないとは思いますが、誰もが、自分の中の弱さやコンプレックスと闘い、静かにそれを受け入れていく過程がきっと少年時代なのだと思います。そしてその闘いは大人になってもずっと続いているものなのかも知れません。

この作品は、誰の心の中にもある、そんな成長の過程を少年の姿(それは実は作者自身の姿でもあるようなのですが)を借りて描き出しているところに共感を感じさせられるのでしょう。

「きよしこ」という一風変わった、でもどこかで聞いたことがあるような気もする言葉の意味は、冒頭部分ですぐ明かされます。それには切なくも悲しい意味が隠されています。

物語の主人公と同年代の少年たちに、そして、少年時代を遠く過ぎてしまった大人たちにも、是非読んでもらいたい作品だと思います。

人間失格:太宰治

以前の記事、「私の故郷」(仙台弁護士会会報からの転載)でも書いたとおり、私は津軽の出身です。

記事の中ではではもっともらしく太宰治の「津軽」の一節を引用したりしたのですが、実はそれ以外ほとんど読んだことのない「なんちゃって太宰ファン」だったのです。でも、記事を読んでくれた昔の知人に勧められ、ほかの作品も読んでみることにしました。それがこの本です。

プロローグ後の冒頭部分、「恥の多い生涯を送ってきました」という一文に、この小説の全てが凝縮されている感じがします。

実際に世間から「恥」と評されてもやむを得ないような主人公の現実の生活と、自分の全てを「恥」と感じすぎてしまうセンシティブなメンタリティまたはコンプレックスがこの小説の主題になっています。両者は鶏と卵のように、どちらが原因とも結果とも言えず、相互補完し合うように絡み合いながら主人公を滅亡の淵へと追い込んでいきます。

ご存じのとおり、作者はこの作品を完成させた後、遺作「グッドバイ」の草稿を残して女性と一緒に心中します。

作者の実生活を題材にしているだけに身につまされるものがあります。

ここまで強烈なものではないにしても、青年期のある一時期、コンプレックスにさいなまれたり、「破滅的な生き方」に惹かれたりすることは多くの人(特に男の子?)にとって身に覚えがあることだと思います。

それでも、何とか現実との折り合いを付けて生きていこうと前向きに模索する姿が古来から文学で取り上げられてきた1つのテーマであるのに対して、ここまであからさまにコンプレックスを吐露して自分が崩壊する様子を描写した作品は、それほど多くないと思われます。

そのあたりに、作者の苦悩の深さが偲ばれます。

「野ブタ。をプロデュース」のところでも書きましたが、「本当の自分」と「周囲に対して演じている自分像」のかい離に苦しむというのは、きっと、いつの時代にも共通な若者の悩みなのでしょうね。

今の時代にも(むしろ今の時代だからこそ)共感を感じさせられる作品だと思います。

最近は「蟹工船」も若い人の間でブームだそうですが、こんな本も読んでみても良いのでは?でも、ストレートすぎて賛否は分かれるかも知れませんね。

将棋の子:大崎善生

一時期、将棋や将棋界に興味を持ったことがありました。今でも将棋新聞なんかときどき買って眺めてます。

そのきっかけの1つになったのはこの本です。

著者は長く将棋連盟に勤め、プロ棋士を目指す少年たちを近くで見つめてきました。

将棋のプロ棋士になるには、奨励会という養成機関に入らなければなりません。

全国各地から神童と呼ばれた子供たち(多くは入会時点で小学校高学年から中学生)が試験を受けて奨励会に入ります。奨励会では6級から始まって所定の成績を上げると級が上がります。1級まで上がると次は初段です。最後は3段リーグと呼ばれる半年間のリーグ戦を戦い抜き、上位2名のみが晴れて4段となり、プロになることを許されるのです。

しかも、年齢制限があり、原則として26歳になる日が属する回の3段リーグが終わるまでに4段にならなければ退会となります。奨励会に入会しても、最終的にプロになれるのは5人に1人しかいないという厳しさです。

この本は、そんな奨励会員たちの姿、中でも、夢破れて奨励会を去っていった人たちの姿を描いたノンフィクションです。

少年の頃の夢を最後まで実現できるのは、きっとほんの一握りの人に過ぎないと思います。多くの少年たちは、どこかで夢に区切りを付けて現実の世界と向き合わなければならなくなります。でも、夢にかけた情熱が大きければ大きいほど、その作業はとても辛く、苦しいものになります。

筆者は、そんな「元奨励会員」達の、夢破れた後の生き方を、兄のような優しいまなざしで丁寧に追っています。

読んでいて涙をこらえきれなくなる場面が2つありました。

1つは、主役級の元奨励会員が、退会となる直前に、病弱の母親を連れて温泉に行き、夜に2人だけで静かな時を過ごす場面です。病気でもはや母親の先が長くないことを知っていて、でも何をしてやることもできず、更にはもう自分は母親の期待に応えることができそうもないことに気づいてしまっている奨励会員の息子。そんな息子を気遣いつつ、ずっと息子のために働き続け、体を壊して息子の世話ができなくなってしまったことで自分を責めながら、それでも最後まで息子の夢に寄り添おうとする母親。

社会の中で「夢」だけを頼りにひっそりと生きてきた2人が、「夢」の終焉(それは母親の命の終焉でもあったのですが)を間近に、相手を気遣い合いながら心静かに過ごす様子には、無情を感じさせられるとともに、無償の愛の尊さを感じました。

もう1つは、ラストシーンで、その元奨励会員と筆者が何年かぶりに再会を果たして別れる場面です。

暖かいタクシーに乗っている筆者と、寒空の下、立ちつくしていつまでも手を振る元奨励会員の彼。ここで、タイトルとなった「将棋の子」の意味が明かされます。

彼は夢破れて将棋と無縁の暮らしを長く続けていてもなお、少年の頃の純粋な気持ちを失っていなかったのです。いつまでもいつまでも、1つのことを純粋に好きで居続けることはとても難しく、尊いことだと思うとともに、そんな彼の純粋さをうらやましくさえ感じさせられます(おそらく、筆者もそう思ったことでしょう)。

私がこの本にこれほど感銘を受けたのは、私たちの頃の司法試験受験生の姿とどこか通じるところがあるからかも知れません。弁護士や裁判官・検察官になりたいという夢だけを頼りに、何年も何年も司法試験を受け続け(私たちの頃は合格まで平均6年と言われていました)、それでも試験に受からず、夢破れて去って行く人たちを数多く見ました。そんな姿と重なるところがあるような気がします。

さて、筆者はノンフィクションライターとしてスタートし、本書を含む何編かの優れた本を世に送り出した後に小説に転向しています。

小説家としての作品は人間の生と死、根源的な愛をテーマにしたものが多く、そちらの方にも好きな作品がたくさんあります。いずれ、それについても書いてみたいと思います。

そしてまた、今、宮城県からも奨励会に通っている子供たちが何人かいることと思います。彼らの夢がいつの日か叶うことを願わずにいられません。

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