F先生のこと③~仙台弁護士会会報より~
引き続き、平成13年の仙台弁護士会会報「年男・年女よりひと言」に掲載された私の原稿を転載します。今回で最後です。全部お読みいただいた皆さん、どうもありがとうございました。<(_ _)>
------- 以下、転載 -------
26才のとき、私は結婚した。披露宴を弘前市で行うことになったが、その際、父の強い要望でF先生もお招きすることにした。父もやはり教員をしていたので、何かとF先生とお付き合いもあったらしく、是非呼んであげて欲しいということだったのだ。
披露宴当日、先生と14年ぶりに再会した。先生はちょうどその年限りで定年を迎えるということであった。丸眼鏡はそのままだったが、頭はほとんど白髪になっていた。昔、あんなに大きく見えたのは錯覚だったのか、先生はすっかり小さくなっておられた。最後まで管理職にはならず生涯一教員を貫かれたらしく、それもまたF先生らしいなと思った。
披露宴が始まり、F先生の祝辞の番になった。先生は、お約束通り、新郎に対する大げさな誉め言葉を並べた後で、
「K君(注:私のこと)が弘前に転校することになってクラスで送別会をしたとき、生徒の1人がこんな絵を描いて黒板に貼りました。その絵がありますのでご披露します」
とおっしゃって、手にしていた白い大きな模造紙を広げて客席に示した。
その絵には、親亀の上に子亀、孫亀といった風に亀が何匹か積み重なって、五所川原市から弘前市に向かって歩いて(這って?)行く様子がマジックペンで描かれていた。もちろん、亀の親子は私たち家族を指すものであり、亀の後方に描かれている建物は、去ってゆく小学校を表すもののようであった。
遠い記憶なのでさだかではないが、そう言われてみれば確かにクラスで送別会をやってもらった記憶はある。そのときに誰かがそんな絵を描いてくれたのかも知れない。だから、その話自体はあながち嘘ではないように思われた。
しかし、仮にその話が本当であったとしても、14年も前のマジック描きの模造紙の絵をずっと保管していたとは到底思われない。先生はその後も毎年多くの生徒を送り出しているのである。
何よりも先生が広げた模造紙は色褪せもなく真っ白で、折り目やシワもなく、ホコリも被っていないきれいな紙で、とても14年前のものには見えなかった。
私の目にはどう見ても、前の晩にでも、先生が昔のことを想い出しながら自ら描いて下さったもののようにしか見えなかった。
私は、その紙の白さに胸が詰まった。
先生に教わっていた頃の俺は、弱虫で卑怯者で、そのクセ優等生のプライドばかり強い小賢しい奴で、先生にだって随分ひどいことをしたのに・・・
そう思ったら、涙が込み上げてきて抑えるのに必死だった。
場は和やかな笑い声に包まれたが、私1人顔を上げることができずに下を向いていた・・・。
その年を契機に、3~4回年賀状を取り交わしたであろうか。F先生は突然亡くなられた。朝、父からの電話でそのことを知らされた私は、葬儀に参列するという父に、私の分の香典も一緒に供えてもらうよう頼んだ。
後日、ご遺族の方から、お香典返しと共に丁寧なお手紙をいただいた。それには、「父は生前、自分の教え子の中から弁護士が出たことをたいそう誇りにしておりました」と書かれてあった。
私は今年、三度目の年男を迎える。最初の年男の頃はどんなことをしていただろうと考えていたら、F先生のことが想い出され、どうしても書いておきたくなった。
F先生のご冥福をお祈りします。
(終わり)