カテゴリー「仙台弁護士会会報より」の7件の記事

F先生のこと③~仙台弁護士会会報より~

 引き続き、平成13年の仙台弁護士会会報「年男・年女よりひと言」に掲載された私の原稿を転載します。今回で最後です。全部お読みいただいた皆さん、どうもありがとうございました。<(_ _)>

------- 以下、転載 -------

 26才のとき、私は結婚した。披露宴を弘前市で行うことになったが、その際、父の強い要望でF先生もお招きすることにした。父もやはり教員をしていたので、何かとF先生とお付き合いもあったらしく、是非呼んであげて欲しいということだったのだ。

 披露宴当日、先生と14年ぶりに再会した。先生はちょうどその年限りで定年を迎えるということであった。丸眼鏡はそのままだったが、頭はほとんど白髪になっていた。昔、あんなに大きく見えたのは錯覚だったのか、先生はすっかり小さくなっておられた。最後まで管理職にはならず生涯一教員を貫かれたらしく、それもまたF先生らしいなと思った。

 披露宴が始まり、F先生の祝辞の番になった。先生は、お約束通り、新郎に対する大げさな誉め言葉を並べた後で、

 「K君(注:私のこと)が弘前に転校することになってクラスで送別会をしたとき、生徒の1人がこんな絵を描いて黒板に貼りました。その絵がありますのでご披露します」

 とおっしゃって、手にしていた白い大きな模造紙を広げて客席に示した。

 その絵には、親亀の上に子亀、孫亀といった風に亀が何匹か積み重なって、五所川原市から弘前市に向かって歩いて(這って?)行く様子がマジックペンで描かれていた。もちろん、亀の親子は私たち家族を指すものであり、亀の後方に描かれている建物は、去ってゆく小学校を表すもののようであった。

 遠い記憶なのでさだかではないが、そう言われてみれば確かにクラスで送別会をやってもらった記憶はある。そのときに誰かがそんな絵を描いてくれたのかも知れない。だから、その話自体はあながち嘘ではないように思われた。

 しかし、仮にその話が本当であったとしても、14年も前のマジック描きの模造紙の絵をずっと保管していたとは到底思われない。先生はその後も毎年多くの生徒を送り出しているのである。

  何よりも先生が広げた模造紙は色褪せもなく真っ白で、折り目やシワもなく、ホコリも被っていないきれいな紙で、とても14年前のものには見えなかった。

 私の目にはどう見ても、前の晩にでも、先生が昔のことを想い出しながら自ら描いて下さったもののようにしか見えなかった。
 
 私は、その紙の白さに胸が詰まった。
 
 先生に教わっていた頃の俺は、弱虫で卑怯者で、そのクセ優等生のプライドばかり強い小賢しい奴で、先生にだって随分ひどいことをしたのに・・・

  そう思ったら、涙が込み上げてきて抑えるのに必死だった。

 場は和やかな笑い声に包まれたが、私1人顔を上げることができずに下を向いていた・・・。

 その年を契機に、3~4回年賀状を取り交わしたであろうか。F先生は突然亡くなられた。朝、父からの電話でそのことを知らされた私は、葬儀に参列するという父に、私の分の香典も一緒に供えてもらうよう頼んだ。
 後日、ご遺族の方から、お香典返しと共に丁寧なお手紙をいただいた。それには、「父は生前、自分の教え子の中から弁護士が出たことをたいそう誇りにしておりました」と書かれてあった。

 私は今年、三度目の年男を迎える。最初の年男の頃はどんなことをしていただろうと考えていたら、F先生のことが想い出され、どうしても書いておきたくなった。

 F先生のご冥福をお祈りします。

(終わり)

F先生のこと②~仙台弁護士会会報より~

引き続き、平成13年の仙台弁護士会会報「年男・年女よりひと言」に掲載された私の原稿を転載します。

------- 以下、転載 -------

 F先生に対してとても申し訳ないことをしてしまったとずっと心に残っている事件がある。

 多分6年生の春頃のことだったと思うが、クラスでニワトリの卵を育ててひなをかえそうという話になったらしく、先生が有精卵を教室に持ち込んでおられた。「なったらしく」というのは、偶々私はそれが決まった日に風邪か何かで休んでおり、そのことを知らなかったのである。

 教室の隅のロッカーの上に、ビニール袋に入った卵が台座に乗せられて置いてあったのだが、教室に生卵が置いてあるなどという事態は小学生の私の想像を遙かに超えるものであった。

 休み時間に近くを通りがかった際、何だろうと思い、持ち上げてみた瞬間、パキャッと音を立てて卵は割れてしまった。まさかそれが生卵であるとは思っていないので、指先の力が強すぎたのである。

  私は一瞬頭がパニックになった。しかし、幸いなことに卵はビニール袋に入っているために辺りに飛び散ったり汚れたりすることはなかった。

 丁度、近くに人もいない。

 私は少し迷った末に、割れた卵の入ったビニール袋をそっと台座の上に戻し、早足で自分の座席に戻った。

 少しして、後ろの方から、「卵が割れてる」という誰かの大きな声が聞こえた。

 授業時間が始まると、F先生は、「卵を割った人は正直に名乗り出るように」と皆に呼びかけた。しかし、私は、名乗り出るとビンタを食らうのではないかという気持ちと、自分は優等生なのにこんな失敗をしたのがばれると恥ずかしいという気持ちから(多分、後者の方が強かったと思う)、とうとう名乗り出ることができなかった。

 沈黙の時間が過ぎた。先生は、クラスの誰も名乗り出ないことに少し悲しげな表情をされたが、それ以上追求することはせず、その件はそれで終わりになった。

 6年生の12月、私は卒業を目前にして弘前市に転校した。F先生とはそれっきり連絡を取ることはなくなった。

(続く)

F先生のこと①~仙台弁護士会会報より~

仙台弁護士会の会報には、毎年1月号に「年男・年女からひと言」という特集記事が掲載されます。私も8年前の年男のときに原稿を書きました。今年の会報を読んでいたら、何となくそのときのことが懐かしくなりましたので、当時の原稿をアップしたいと思います(決してネタ切れな訳ではありません(笑))。

その半年くらい前の会報に「私の故郷」という記事を書いており(「仙台弁護士会会報より」のカテゴリーでご覧いただけます)、この記事は図らずも「津軽シリーズ」の第2弾になりました。

長いので3回に分けます。

------- 以下、転載 -------

「年男・年女よりひと言~F先生のこと~」

 F先生は私が小学校4~6年のときの担任の先生である。

 当時私は、青森県弘前市から30キロ位北にある五所川原市に住んでいた。

 先生は40代半ばで、体が大きく、銀縁の丸眼鏡がトレードマークだった。教育熱心で一生懸命に教えてくれていたが、私を含め、反抗期に差しかかっていたクラスの悪ガキたちは先生の言うことを聞かず、いつも先生とぶつかっていた。

 私は、成績的には一応優等生だったので、学級会長などクラスのまとめ役のようなことを期待されていたようだったが、そう思えば思うほどそれに従いたくなく、いつも先生に楯突いていた。その癖、ひどい泣き虫だったので、少し怒られるとすぐに泣いては先生を困らせていた。

 悪いことをしてF先生に怒られるときには、よくビンタが飛んできた。当時はそれが普通だった。

 先生のビンタは普通と違い、まず左手で相手の頬(ビンタするのと逆側)をつねって顔面を固定し、その状態で右手でビンタを張ってくるのだった。そのため、やられる方はつねられる痛みとビンタの痛みでダブルパンチになるので、我々悪ガキたちも、表面上は怖くないように装っていたものの、内心はとても恐れていた。

 このビンタへの対抗手段として、平手で打たれる瞬間に頬をぷっと膨らませて空気を貯め、衝撃を緩和するというウラ技を編み出した奴もいたが、膨らませ過ぎると先生にばれてしまい、怒られて更にビンタを食らうのだった。

(続く)

私の故郷 津軽④~仙台弁護士会会報より~

引き続き、平成12年の仙台弁護士会会報に投稿した記事からの転載です。

最終回は中学・高校時代を過ごした弘前市(ひろさきし)のお話です。

長い拙文、最後までお読みいただき、どうもありがとうございました

<(_ _)>

---- 以下、転載 ----

5 弘前市(ひろさきし)
 弘前市は古くから津軽の文化の中心だった町である。気候も(津軽の中では)比較的穏やかな方で、米作とりんごの生産が盛んである。高校生位になると春にりんごの花粉付けのアルバイトにありつけることもある。
 ゴールデンウィークの頃は弘前城公園の桜が見頃になる。ここの桜はとにかく木の数が他とは比較にならない位多い上に、お城と岩木山のコントラストが美しく、本当に見事である。夜桜ともなると、ライトアップされたお城をバックにはらはらと桜の花びらが舞い散る様子は正に幽玄の美といった趣で、日本人の琴線をくすぐる要素が全て揃っているのではないかとさえ思う。 

 「ねぶた」と「ねぷた」の違いは仙台弁護士会の皆さんもきっとご存じと思うが、「ねぶた」は青森市で行われ、武者人形型をした灯籠を引きながら踊り手がダイナミックに踊る(ハネると言う)ものである。世間一般に有名なのはこちらである。弘前の「ねぷた」は、扇形をした(人の形はしていない)箱形の灯籠に武者絵が描かかれたものを引きながら静かに町をねり歩く。踊りはない。かけ声も「ラッセラー」という威勢の良いものではなく「ヤーヤドー」と低くうなるような調子である。「ねぶた」に比べると万事派手さには欠けるので観光客の人気もやや劣る。しかし、扇の正面の勇壮な武者絵が笛の音やかけ声と共に次第に近づき、それが過ぎたと思うと「見送り絵」と呼ばれる裏面の美人画が少しずつ揺れながら遠ざかっていく。その様子はとても情緒的で、過ぎゆく夏を惜しむかのような哀愁がある。私はどちらも大好きである。

 さて、私が卒業した弘前高校では、学園祭でねぶたの運行がある。あえて「ねぶた」と書くのは、弘前型の「ねぷた」ではなく、青森型のものを作り、派手にハネながら運行するからである。
 毎年1学期が終わる直前の7月下旬に学園祭があるが、ねぶた運行はその前夜祭として行われる。1年から3年まで各クラスが1台ずつねぶたを自作し、それを引くのである。前夜祭とは言うものの、生徒にとってはこっちの方がメインイベントである。前期試験が終わると、校舎の中庭に即席のねぶた小屋(丸太を組んで長屋風に縦割りにしたもの)が作られ、クラス毎に1区画が割り当てられてねぶた製作が始まる。運行までの2週間程はもはやねぶた一色で勉強どころではない。授業が終わるとそれぞれ作業着に着替えてねぶたを作る。私の頃は「つなぎ」を着るのが流行っており、クラスでお揃いのを作ったり、白地のつなぎを買ってカラフルに染めて着たりするのが流行っていた。私はエメラルドグリーンのつなぎであった。

 作業の基本は放課後で、朝は確か7時頃から学校に来て作業をやって良いことになっていたと思うが、生徒は次第にエスカレートして朝4時や5時に学校に来てこっそり作るようになる。そうなると保護者や世間の方々からクレーム来るので、先生が見回りをしており、見つかるとえらく怒られた。
 そこで生徒側は代表で見張りを立てて先生が来るとすぐに隠れたりするのであるが、すると更に先生の方では知らぬ顔をしていきなり2階の窓から顔を出して隠れている奴らを見つけるなど、ドリフのギャグさながらのいたちごっこが繰り返された。
 私は一度、ねぶた作りの帰り道、友人から「明日は午前1時に行こう。迎えに行くから」と言われ、てっきり冗談だと思って「おお、そうしようぜ」などと言ったところ、本当に夜中の1時に呼び鈴を鳴らされたことがあった。慌てて飛び起き、事情を知らない父が玄関で友人に何か説教を始めようとする脇をくぐり抜けてそいつと一緒に自転車で学校へ突っ走った。

 朝の楽しみはもう1つある。クラスの女子が、ばかみたいに朝飯も食わずねぶたを作っている男子のために、誰かの家に集まっておにぎりを作って持って来てくれるのである。そのおにぎりを食べるのは男子全員の楽しみであった(みんな照れくさいので感謝の言葉などまともに言わないのであるが)。
 しかし、若さとは残酷なもので、せっかく好意で作ってくれたおにぎりを前に、失礼にも、クラスのマドンナ的存在の女子が作ったものはどれかと詮索し始める奴らも現れるのである。「ノリで巻いてあって中身がシャケの奴が○○ちゃんの作ったおにぎりらしいぜ」などというもっともらしい噂がこそこそ飛び交い、真偽の程も定かでないのにそれを奪い合ってじゃんけん合戦を始めたりするのであった。そんな男達の姿を、女子はさぞかし呆れて見ていたことだろうと思う(ちなみに私は・・・ノーコメントということで)。

 いよいよねぶた運行の日。ぎりぎりまで最後の仕上げ作業をし、それを終えると浴衣に着替える。そして、苦労して作ったねぶたを交替で引きながら、笛を吹き、かけ声をあげ、思いっきりハネる。カラースプレーで髪を染めたり、目の上にはアイラインを引いたりもした。今で言う「ビジュアル系」のハシリである(まあ、顔はともかく)。地元では弘高ねぶたと言えばそれなりに有名なので、沿道には見物客も結構おり、その視線を意識しながら派手にハネる。友達と手を取り合いながら、あるいは1人で、若さを爆発させるように、何も考えずひたすら踊りまくる。「世界中がきらきら輝いて見える瞬間」というものがもしあるとしたら、きっとこういうときのことを言うのだろうと、今にして思う。
 夕闇に染まる岩木山がそんな我々を遠くで見ているような気がした。

6 終わりに
 津軽を離れてもう17年になる。津軽で過ごしたのとほぼ同じ歳月になってしまった。仙台は気候といい利便性といい、本当に住み易くていい町である。こんな環境になれてしまった私には、もう津軽で暮らすことなどできないだろうと思う。でも、親兄弟はもちろん、昔の友達と話すときは今もどんな場所であれ必ず津軽弁に戻ってしまう。きっと、心の中では死ぬまで津軽人として生きて行くのだろうと思う。

 冷たく厳しい土地であった・・・。
 けれども、子供時代を子供のままに、伸びやかに育んでくれた大地であった・・・。

終わり

私の故郷 津軽③~仙台弁護士会会報より~

引き続き、平成12年の仙台弁護士会会報に投稿した記事からの転載です。

今回は小学校3年生から6年生までを過ごした五所川原市(ごしょがわらし)というところのお話です。

---- 以下、転載 ----

4 五所川原市(ごしょがわらし)
 車力村から40キロ程南下したところに五所川原市はある。ちょうど津軽半島の付け根の辺りで、津軽平野のほぼ中心でもある。古くから交易の中心として栄えた商業の町で、私はこの町に来て初めて「デパート」なるものを見た。大きな病院やそれなりのコンサートホールもある。青森市や弘前市にはまだ車で1時間程かかるため、津軽半島の人にとっては長らくこの町が経済や文化の小中心であった。しかし、地方小都市衰退の流れには抗えず、この町も近時は活気を失いつつあるようである。

 私は車力村時代とは一変して、1キロ以上の道のりを歩いて通学する羽目になった。この辺りは雪が多い上にとにかく風が強く、冬はいつも地吹雪が横や下から吹き付けるので傘が役に立たない。小柄だった小学生の私は本気で吹っ飛ばされるのではないかと思ったことが何度もある。お隣の金木町(太宰治の生家があることで有名)では、最近、このような気候を生かして冬場に「地吹雪体験ツアー」なる企画を始めたそうである。私はとても「体験」したいとは思わないが、世の中、いろんな売り出し方があるものである。

 当時の私の家の裏手には広大な空き地が広がっており、かつ、すぐ脇を線路が通って土手になっていたため、冬になると土手が天然のスキーコースになった。いつも、土手の上から下の空き地に向かってミニスキーやプラスチックのソリで滑って遊んだものである。ミニスキーと言えばジャンプ台が「お約束」で、近所の子らと一緒になって雪ででっかいジャンプ台をこさえてはジャンプ比べをし、吹っ飛ぶように高く飛び上がっては雪の斜面に頭から突っ込んでいた。ミニスキーなど何本折ったか数えたこともない。

 小学校では野球部にも入った。下手くそで3年間補欠だったが、将来はプロ野球選手になりたいと恥ずかしげもなく公言していた。まさかこの年になって、弁護士をやりながらヘボ野球を続けていようとは想像もしていなかった。

 小学校を卒業する直前の12月、私は五所川原市を離れて弘前市に住むことになった。この位の年になるとさすがに転校がつらく、最後の登校日は泣く泣く皆と別れた。大人になってみると、車でほんの1時間程度の距離なのだが、子供心には今生の別れのようにさえ思えたものである。野球部の連中からはみんなで寄せ書きしたバットをもらった。私自身もそのバットに「努力」と書いたことをはっきり覚えている。あのバットは今どこにあるんだろう・・。

 何年か後、私が高校生の頃だろうか、久しぶりに五所川原市に立ち寄ってみたことがあった。その頃には裏の空き地はもうなくなっており、造成されて家が建ち並んでいた。なんだか、大事な物が1つ壊されてしまったような悲しい気持ちがした。

私の故郷 津軽②~仙台弁護士会会報より~

引き続き、平成12年の仙台弁護士会会報に投稿した記事からの転載です。

今回は保育園から小学校2年生までを過ごした車力村(しゃりきむら)というところのお話です。

---- 以下、転載 ----

3 車力村(しゃりきむら-注:現在は市町村合併によりつがる村)
  車力村は市浦村を少し南に下ったところにある小さな村である。この辺りの産業は農業が中心で、米やスイカ、メロンなどが取れるが、冬場は仕事がないため、この界隈の町や村はいわゆる出稼ぎ労働者の供給源となっている。たまに都会の建設現場で出稼ぎ労働者の事故のニュースが報じられると、この辺りの人であることもあり、胸を痛める。
 私はこの村で保育園から小学2年生までを過ごした。

 私が入学した小学校は豊臣という集落にある分校であった。本校は少し離れたところにあり、小さいうちはそこに通うのが大変なため、1・2年のときだけ地区内の分校に通うのである。2年生の終わりには一応「卒業式」のようなことをやって本校に巣立っていく。従って、分校にいる生徒は1年生と2年生だけであり、各学年は1クラスずつしかない。当然、1クラスの人数も多い筈がなく、私のクラスは14人だけであった。「24の瞳」ならぬ「28の瞳」である。

 父はこの分校の教員をしており、おそらく宿直役を兼ねていたためと思うが、教員住宅は校舎と一体となっていた。即ち、学校の体育館と自宅が扉一枚でつながっているのである。
 私は「地の利」を生かして、朝はぎりぎりまで家で過ごし、始業のチャイムがなり始めると同時に扉を開けて学校に行くというような横着をしていた。学校給食もないので生徒は弁当持参なのであるが、私の場合は昼食の時間になってからうちに行って取ってくるので、1人だけいつもできたての弁当を食べていた。ひどいときには母にラーメンを作ってもらい、どんぶりをもって教室に戻って食べたりしたこともあった。
 「○○は俺の庭さ」という言い方があるが、とにかく扉1枚開ければ学校なのであるから、校庭の遊具も体育館も全てが私の庭であった。放課後はもとより、日曜日だろうが夏休みだろうがとにかくいつも学校で遊んでいた。両親にとっても、狭い家の中で走り回られるよりも体育館で勝手に遊んでくれる方がよっぽど楽だったのであろう。

 すぐ近くには雑木林もあり、木登りやアケビ取りをして遊んだ。アケビは今でこそ極くまれにスーパーに並ぶ程度で、珍味のような大きな顔をしていばっているが、当時は林の中で幾らでも取れたので、毎日何個も食べた。食べ過ぎると下痢するよとよく母に叱られたものである。白くて甘くねっとりした果実を口にほおばり、種をプププッと吐き出すときの快感は何とも忘れがたい。

 先生は、1・2年の担任各1名と父の3名であった。父は一応分校全体の管理者のような任務をしていたと思われるが、体育と音楽の授業だけは1~2年とも父が受け持っていた。私も父の授業を受けた訳であるが、学校では一応立場をわきまえて、父は私を他の生徒と同じく名前で呼び、私も父を「○○先生」と呼んでいた。まるで原辰徳親子みたいである(この喩え自体相当古い)。ときどき、授業に必要な道具を私が忘れたりすると皆の前で父に注意されたり立たされたりするのであるが、親子なだけにどうにもバツが悪かった。多分、父はもっとバツが悪かったと思う。

 クラスの友達もなにせ14人しかいないのであるから、男も女もなく、派閥もいじめもなく、本当に仲良く遊んだ(ただし、喧嘩はしょっちゅうした)。当時流行っていたフィンガーファイブ、城みちる、山本リンダ等の物まねを皆でしたことを想い出す。
 捨てられていた黒い汚い子犬を拾い、「熊太郎」と名付けて校庭の隅で皆で飼ったこともあった(もっとも、実際に世話をしていたのはうちの母だったとは思うが)。いつの間にかいなくなってしまい、泣きながら探した思い出がある。

 本稿を書くに当たって、試みに、そのときのクラス14人の名前を思い出してみた。そうしたところ、1人を除いてほとんどフルネームで思い出せた。1人だけはどうしても顔も名前も全く思い出せず申し訳ない限りなのであるが、30年も経とうとする今でも13人(私含めて)も思い出せたというのは自分自身驚きであった。やはり、少人数学級にはそれなりの良さがあるものである。

 悲しい出来事もあった。クラスメートの1人が、2年の時、川に落ちて亡くなったのである。そいつは素手で毛虫をつかむことができることでクラスでも一目置かれていた奴だった。そんな奴が、たった1日で死んでしまったことがただ不思議に思えてならなかった。ただでさえ少なかった「瞳」の数は「26」になってしまった。

 2年を終えて「卒業」した後、皆は本校に進んだが、私は父の転勤で五所川原市に引っ越した。その数年後、この分校は廃校となり、その後も何年間かは保育園として使われたそうであるが、それも廃止されて現在は何もなくなってしまったと聞く。

私の故郷 津軽①~仙台弁護士会会報より~

仙台弁護士会の会報に、昔、「私の故郷」という連載企画がありました。

今回は、少し毛色を変えて、平成12年に私がその企画に投稿した記事を転載したいと思います(決してネタが切れた訳ではありません-笑)。

大分古い記事なので、後の市町村合併により地名が変わってしまったところもありますので、注を付けておきました。また、今回掲載するにあたって、若干手直ししたところもあります。

私が高校卒業までに住んだところを順次紹介する内容になっていますが、かなり長いので、何回かに分けて載せたいと思います。それでは、どうぞ。

---- 以下、転載 ----

~シリーズ・私の故郷~
   津 軽    

1 はじめに
 私の故郷は津軽である。最終的には弘前市に落ち着いたが、それ以前は、教員だった父の転勤の関係で津軽地方を転々と移り住んでいた。そのため、全体としての「津軽」が私の故郷と思っている。どこも想い出深い土地なので、順に紹介したい。

2 市浦村十三(しうらむらじゅうさん-注:現在は五所川原市に合併)
 私が生まれたのは市浦村十三というところである。「十三」は地区名であり、地番ではない。青森県の北側には2本の半島が突き出ているが、右側の「斧」の形をしたのが下北半島、左側の真っ直ぐ突き出ているのが津軽半島であり、市浦村はその津軽半島の先端から30~40キロくらい下った海沿いの小さな村である。その中の、十三湖という湖のほとりが十三という地区である。
  古く鎌倉・室町時代には「十三湊」(とさみなと)として国内外との交易で栄え、水軍によりこの地を支配した安東一族が栄華を誇ったそうであるが、港町は津波により一夜にして湖の底に沈んだとの伝説がある。
 今ではかつての繁栄の面影はなく、寂れた漁村である。

 十三湖は太宰治の「津軽」では「人に捨てられた孤独の水たまり」と評されている静かな湖である。海水と淡水が混じり合ういわゆる汽水湖で、県内ではしじみの産地として有名である。この辺りのしじみ汁はそれこそお椀の半分くらいをしじみが埋め尽くすというボリュームで、飲み物というより食べ物である。
  私の生家は地域のメインストリート(?)沿いの雑貨屋であった。ここに住んだのは3~4歳までであるが、両親ともこの村の出身で実家同士も200m位の距離にあるため、中学・高校くらいまで何度となく家族で帰省した。
 当時、店は主に祖母が切り盛りしていたが、孫には甘く、私は店の売り物のお菓子を食べ放題であった。

 さて、吉幾三の「津軽平野」という歌でも「十三湊は西風強くて・・・」と歌われているが、この辺りは「やませ」と呼ばれる海風が非常に強い。土地も砂地のため、沿岸の道路沿いには延々と防砂林が立ち並んで物寂しい風景を作り出している。
 やせた土地で、農作にも相当苦労した地域らしい。盆踊りに歌われる「十三の砂山」(とさのすなやま)という民謡があるが、その歌詞は、「十三の砂山 米ならよかろ」と、村人の願いが込められているような切ない歌詞である。この切ない歌詞を、まるで死者を弔う祈りのようなもの悲しい節に乗せて歌う。哀切さを感じさせる名曲で、不思議といつまでも胸に残る。
 幼い頃、近くの公民館や学校の校庭で、ほの赤い提灯の飾り付けの中、やぐらを中心に村人がこの歌に合わせて粛々と盆踊りを踊る姿を片隅で眺めていた記憶がある。その姿には、なぜか、幼いながらにも、えも言われぬ感動というか哀愁というか、情緒的な気持ちを覚えたものである。今にして思えばそれは、生きていくことの大変さと、それに耐えて生き続けていく人々の営みの力強さといったようなものを幼心に肌で感じ取っていたのかも知れない。十三の盆踊りの風景は私の原風景の一つとなっている。

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