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2008年3月の10件の記事

私の故郷 津軽③~仙台弁護士会会報より~

引き続き、平成12年の仙台弁護士会会報に投稿した記事からの転載です。

今回は小学校3年生から6年生までを過ごした五所川原市(ごしょがわらし)というところのお話です。

---- 以下、転載 ----

4 五所川原市(ごしょがわらし)
 車力村から40キロ程南下したところに五所川原市はある。ちょうど津軽半島の付け根の辺りで、津軽平野のほぼ中心でもある。古くから交易の中心として栄えた商業の町で、私はこの町に来て初めて「デパート」なるものを見た。大きな病院やそれなりのコンサートホールもある。青森市や弘前市にはまだ車で1時間程かかるため、津軽半島の人にとっては長らくこの町が経済や文化の小中心であった。しかし、地方小都市衰退の流れには抗えず、この町も近時は活気を失いつつあるようである。

 私は車力村時代とは一変して、1キロ以上の道のりを歩いて通学する羽目になった。この辺りは雪が多い上にとにかく風が強く、冬はいつも地吹雪が横や下から吹き付けるので傘が役に立たない。小柄だった小学生の私は本気で吹っ飛ばされるのではないかと思ったことが何度もある。お隣の金木町(太宰治の生家があることで有名)では、最近、このような気候を生かして冬場に「地吹雪体験ツアー」なる企画を始めたそうである。私はとても「体験」したいとは思わないが、世の中、いろんな売り出し方があるものである。

 当時の私の家の裏手には広大な空き地が広がっており、かつ、すぐ脇を線路が通って土手になっていたため、冬になると土手が天然のスキーコースになった。いつも、土手の上から下の空き地に向かってミニスキーやプラスチックのソリで滑って遊んだものである。ミニスキーと言えばジャンプ台が「お約束」で、近所の子らと一緒になって雪ででっかいジャンプ台をこさえてはジャンプ比べをし、吹っ飛ぶように高く飛び上がっては雪の斜面に頭から突っ込んでいた。ミニスキーなど何本折ったか数えたこともない。

 小学校では野球部にも入った。下手くそで3年間補欠だったが、将来はプロ野球選手になりたいと恥ずかしげもなく公言していた。まさかこの年になって、弁護士をやりながらヘボ野球を続けていようとは想像もしていなかった。

 小学校を卒業する直前の12月、私は五所川原市を離れて弘前市に住むことになった。この位の年になるとさすがに転校がつらく、最後の登校日は泣く泣く皆と別れた。大人になってみると、車でほんの1時間程度の距離なのだが、子供心には今生の別れのようにさえ思えたものである。野球部の連中からはみんなで寄せ書きしたバットをもらった。私自身もそのバットに「努力」と書いたことをはっきり覚えている。あのバットは今どこにあるんだろう・・。

 何年か後、私が高校生の頃だろうか、久しぶりに五所川原市に立ち寄ってみたことがあった。その頃には裏の空き地はもうなくなっており、造成されて家が建ち並んでいた。なんだか、大事な物が1つ壊されてしまったような悲しい気持ちがした。

私の故郷 津軽②~仙台弁護士会会報より~

引き続き、平成12年の仙台弁護士会会報に投稿した記事からの転載です。

今回は保育園から小学校2年生までを過ごした車力村(しゃりきむら)というところのお話です。

---- 以下、転載 ----

3 車力村(しゃりきむら-注:現在は市町村合併によりつがる村)
  車力村は市浦村を少し南に下ったところにある小さな村である。この辺りの産業は農業が中心で、米やスイカ、メロンなどが取れるが、冬場は仕事がないため、この界隈の町や村はいわゆる出稼ぎ労働者の供給源となっている。たまに都会の建設現場で出稼ぎ労働者の事故のニュースが報じられると、この辺りの人であることもあり、胸を痛める。
 私はこの村で保育園から小学2年生までを過ごした。

 私が入学した小学校は豊臣という集落にある分校であった。本校は少し離れたところにあり、小さいうちはそこに通うのが大変なため、1・2年のときだけ地区内の分校に通うのである。2年生の終わりには一応「卒業式」のようなことをやって本校に巣立っていく。従って、分校にいる生徒は1年生と2年生だけであり、各学年は1クラスずつしかない。当然、1クラスの人数も多い筈がなく、私のクラスは14人だけであった。「24の瞳」ならぬ「28の瞳」である。

 父はこの分校の教員をしており、おそらく宿直役を兼ねていたためと思うが、教員住宅は校舎と一体となっていた。即ち、学校の体育館と自宅が扉一枚でつながっているのである。
 私は「地の利」を生かして、朝はぎりぎりまで家で過ごし、始業のチャイムがなり始めると同時に扉を開けて学校に行くというような横着をしていた。学校給食もないので生徒は弁当持参なのであるが、私の場合は昼食の時間になってからうちに行って取ってくるので、1人だけいつもできたての弁当を食べていた。ひどいときには母にラーメンを作ってもらい、どんぶりをもって教室に戻って食べたりしたこともあった。
 「○○は俺の庭さ」という言い方があるが、とにかく扉1枚開ければ学校なのであるから、校庭の遊具も体育館も全てが私の庭であった。放課後はもとより、日曜日だろうが夏休みだろうがとにかくいつも学校で遊んでいた。両親にとっても、狭い家の中で走り回られるよりも体育館で勝手に遊んでくれる方がよっぽど楽だったのであろう。

 すぐ近くには雑木林もあり、木登りやアケビ取りをして遊んだ。アケビは今でこそ極くまれにスーパーに並ぶ程度で、珍味のような大きな顔をしていばっているが、当時は林の中で幾らでも取れたので、毎日何個も食べた。食べ過ぎると下痢するよとよく母に叱られたものである。白くて甘くねっとりした果実を口にほおばり、種をプププッと吐き出すときの快感は何とも忘れがたい。

 先生は、1・2年の担任各1名と父の3名であった。父は一応分校全体の管理者のような任務をしていたと思われるが、体育と音楽の授業だけは1~2年とも父が受け持っていた。私も父の授業を受けた訳であるが、学校では一応立場をわきまえて、父は私を他の生徒と同じく名前で呼び、私も父を「○○先生」と呼んでいた。まるで原辰徳親子みたいである(この喩え自体相当古い)。ときどき、授業に必要な道具を私が忘れたりすると皆の前で父に注意されたり立たされたりするのであるが、親子なだけにどうにもバツが悪かった。多分、父はもっとバツが悪かったと思う。

 クラスの友達もなにせ14人しかいないのであるから、男も女もなく、派閥もいじめもなく、本当に仲良く遊んだ(ただし、喧嘩はしょっちゅうした)。当時流行っていたフィンガーファイブ、城みちる、山本リンダ等の物まねを皆でしたことを想い出す。
 捨てられていた黒い汚い子犬を拾い、「熊太郎」と名付けて校庭の隅で皆で飼ったこともあった(もっとも、実際に世話をしていたのはうちの母だったとは思うが)。いつの間にかいなくなってしまい、泣きながら探した思い出がある。

 本稿を書くに当たって、試みに、そのときのクラス14人の名前を思い出してみた。そうしたところ、1人を除いてほとんどフルネームで思い出せた。1人だけはどうしても顔も名前も全く思い出せず申し訳ない限りなのであるが、30年も経とうとする今でも13人(私含めて)も思い出せたというのは自分自身驚きであった。やはり、少人数学級にはそれなりの良さがあるものである。

 悲しい出来事もあった。クラスメートの1人が、2年の時、川に落ちて亡くなったのである。そいつは素手で毛虫をつかむことができることでクラスでも一目置かれていた奴だった。そんな奴が、たった1日で死んでしまったことがただ不思議に思えてならなかった。ただでさえ少なかった「瞳」の数は「26」になってしまった。

 2年を終えて「卒業」した後、皆は本校に進んだが、私は父の転勤で五所川原市に引っ越した。その数年後、この分校は廃校となり、その後も何年間かは保育園として使われたそうであるが、それも廃止されて現在は何もなくなってしまったと聞く。

私の故郷 津軽①~仙台弁護士会会報より~

仙台弁護士会の会報に、昔、「私の故郷」という連載企画がありました。

今回は、少し毛色を変えて、平成12年に私がその企画に投稿した記事を転載したいと思います(決してネタが切れた訳ではありません-笑)。

大分古い記事なので、後の市町村合併により地名が変わってしまったところもありますので、注を付けておきました。また、今回掲載するにあたって、若干手直ししたところもあります。

私が高校卒業までに住んだところを順次紹介する内容になっていますが、かなり長いので、何回かに分けて載せたいと思います。それでは、どうぞ。

---- 以下、転載 ----

~シリーズ・私の故郷~
   津 軽    

1 はじめに
 私の故郷は津軽である。最終的には弘前市に落ち着いたが、それ以前は、教員だった父の転勤の関係で津軽地方を転々と移り住んでいた。そのため、全体としての「津軽」が私の故郷と思っている。どこも想い出深い土地なので、順に紹介したい。

2 市浦村十三(しうらむらじゅうさん-注:現在は五所川原市に合併)
 私が生まれたのは市浦村十三というところである。「十三」は地区名であり、地番ではない。青森県の北側には2本の半島が突き出ているが、右側の「斧」の形をしたのが下北半島、左側の真っ直ぐ突き出ているのが津軽半島であり、市浦村はその津軽半島の先端から30~40キロくらい下った海沿いの小さな村である。その中の、十三湖という湖のほとりが十三という地区である。
  古く鎌倉・室町時代には「十三湊」(とさみなと)として国内外との交易で栄え、水軍によりこの地を支配した安東一族が栄華を誇ったそうであるが、港町は津波により一夜にして湖の底に沈んだとの伝説がある。
 今ではかつての繁栄の面影はなく、寂れた漁村である。

 十三湖は太宰治の「津軽」では「人に捨てられた孤独の水たまり」と評されている静かな湖である。海水と淡水が混じり合ういわゆる汽水湖で、県内ではしじみの産地として有名である。この辺りのしじみ汁はそれこそお椀の半分くらいをしじみが埋め尽くすというボリュームで、飲み物というより食べ物である。
  私の生家は地域のメインストリート(?)沿いの雑貨屋であった。ここに住んだのは3~4歳までであるが、両親ともこの村の出身で実家同士も200m位の距離にあるため、中学・高校くらいまで何度となく家族で帰省した。
 当時、店は主に祖母が切り盛りしていたが、孫には甘く、私は店の売り物のお菓子を食べ放題であった。

 さて、吉幾三の「津軽平野」という歌でも「十三湊は西風強くて・・・」と歌われているが、この辺りは「やませ」と呼ばれる海風が非常に強い。土地も砂地のため、沿岸の道路沿いには延々と防砂林が立ち並んで物寂しい風景を作り出している。
 やせた土地で、農作にも相当苦労した地域らしい。盆踊りに歌われる「十三の砂山」(とさのすなやま)という民謡があるが、その歌詞は、「十三の砂山 米ならよかろ」と、村人の願いが込められているような切ない歌詞である。この切ない歌詞を、まるで死者を弔う祈りのようなもの悲しい節に乗せて歌う。哀切さを感じさせる名曲で、不思議といつまでも胸に残る。
 幼い頃、近くの公民館や学校の校庭で、ほの赤い提灯の飾り付けの中、やぐらを中心に村人がこの歌に合わせて粛々と盆踊りを踊る姿を片隅で眺めていた記憶がある。その姿には、なぜか、幼いながらにも、えも言われぬ感動というか哀愁というか、情緒的な気持ちを覚えたものである。今にして思えばそれは、生きていくことの大変さと、それに耐えて生き続けていく人々の営みの力強さといったようなものを幼心に肌で感じ取っていたのかも知れない。十三の盆踊りの風景は私の原風景の一つとなっている。

好きな温泉旅館その2:志戸平温泉 遊泉志だて

岩手県花巻温泉郷の奥にある志戸平温泉の別館です。

客室は最近流行の和洋室風で、居間部分はやや狭いのですが、部屋に大きめのベッドが2つ備え付けてあります。

売り物は全室露天風呂付き!で部屋の外を流れる豊沢川を眺めながらのんびりバスタイムを楽しめます。

大浴場も、露天風呂の近くに川が流れており、夜は星空もきれいで、風情があります。

湯上がりどころではゆったりしたチェアーに、飲み物のサービスや足湯もあり、雑誌を眺めてゆっくり時間を過ごせます。

そして、この宿のお勧めはなんと言っても食事です。

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個室のお食事処で1品1品手の込んだお料理を堪能できます。味・ボリュームとも、大満足。

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器や盛りつけも凝っているので、見た目も楽しく飽きさせません。

若いスタッフのサービスもなかなか頑張っていて、やる気を感じさせる宿です。

仙台から花巻は結構遠いし、お値段もそれなりなのでなかなか行けませんが、また行きたい旅館の1つです。

遊泉志だて

http://shidate.jp/

個人再生手続認可確定

昨年から手がけてきたご夫婦の依頼者の個人民事再生手続の認可決定がようやく確定しました。

ご自宅の住宅ローンはそのまま払い続け、それ以外の債権は概ね7~8割を免除してもらうというものです。

ご主人の方は4年間、奥さんの方は3年間、今後も毎月一定額の返済が続きますが、それさえ支払えれば残金は支払わなくても良いことになります。手続き中も何ヶ月にもわたってきちんと積み立てを続けてこられた方々なので、きっと最後までがんばって支払っていただけるものと思います。

個人再生という制度は、住宅ローンはそのまま払うので自宅は守れるし、それ以外の借金は大幅カットになるので、できたばかりの頃はなんて都合のいい便利な制度だろうと思ったものです。

でも、その後の利用状況を見ると、必ずしもそれほど利用件数は多い訳でもない気がします。まあ、最近は過払金返還の全盛期なので、過払金を取り返して任意整理で十分というケースが多いのかも知れませんが。

破産で家を失いたくないという方は結構いらっしゃいますので、そういう方にとっては願ったり叶ったりの制度で、もっと利用されても良いのにと思います。制度自体、余り知られていない可能性がありますので、仙台弁護士会ももっとPRをした方が良いのかも知れません。

太陽のような人

前回の記事で、「甲子園への遺言」のモデルになった高畠さんのことを「太陽のような人」と書きましたが、実は、私の中で「太陽のような人」と言えば、思い浮かぶ人が1人います。

昔、仙台弁護士会野球部にWさんという先輩がいらっしゃいました。

野球はお世辞にもうまいとは言えず、投げ方はぎくしゃくしてまるで柔道の背負い投げのようでしたが、結構な年齢にもかかわらずピッチャーを志し、毎週練習に励んでいました。たまに練習試合の最後の方に1イニング投げる程度で、本番の試合に出ることはほとんどありませんでしが、とにかく野球が大好きで、いつも楽しそうな笑顔に大きな笑い声で参加していました。

誰かのファインプレーには心から賞賛の声を上げ、チームが試合で勝ったときには、ベンチで誰よりも嬉しそうな笑顔で迎えてくれたものです。

野球が好きなだけでなく、きっと、野球場に流れる時間、野球をやっているときの空気、野球をしながら見上げる空、野球をしている仲間、野球の後に飲むお酒、その全てが大好きだったのではないかと思います。

私たちもみんなWさんが大好きでした。私たちは彼の笑顔に引き寄せられるように毎週笑顔で練習に参加したものです。

でも、残念ながら、数年前に亡くなられました。亡くなってみて始めて、私は、彼が私たちにとっての「太陽」だったことに気づいたのです。弁護士会野球部で飲み会があると、今もWさんのことが話題にのぼります。

組織や集団には、こういう「太陽のような人」って必要ですよね。

今もときどきWさんを懐かしく思い出します。

そして、私もあと10年20年経ったときに、後輩から、「あの人は太陽のような人だ」と言われるようになれたらいいなと思います。まだまだWさんの域に達するには長い道のりですが・・・。

甲子園への遺言:門田隆将

プロ野球界で「伝説の打撃コーチ」と呼ばれ、35年間のコーチ生活でイチロー、田口、小久保などを育てた高畠導宏さんの生涯を描いたノンフィクションです。

決して押しつけるのではなく、道具を使ったりして分かりやすく教える工夫をしながら、1人1人に合った打ち方を探す手助けをするという考え方は野球以外の場面でもとても参考になります。

仙台弁護士会野球部メーリングリストでは、この本を読んだ部員が感銘を受け、みんなも読むようにとすかさずゲキをとばしていました(弁護士って結構感化されやすい人が多いです)。

名選手をたくさん育てたことももちろんすごいのですが、私が興味を持ったのは、59歳で打撃コーチを退き、通信教育で教員免許を取得して高校教師になったというところです。既に1つの世界で実績を上げ、名を馳せた人が、それでもなお、全く別の世界に1から挑戦しようとする勇気に感動しました。

高校教師になってからの高畠さんにスポットを当ててドラマ化したのがNHKの「フルスイング」(既に終了)です。このドラマでは高畠さん役の高橋克美さんが、とてもいい味を出してました。明るくて、情熱があって、けれんみがない役どころは、正に高畠さんご本人はきっとこういう人だったんだろうなと思わせるほどピッタリはまっていました。

高畠さんは高校教師になって1年ちょっとでガンで亡くなられたそうです。子供たちを指導して甲子園に行くという夢を果たせなかったことはさぞかし無念だったろうと思います。でも、多くの教え子たちの心の中にいつまでも生き続ける、太陽のような人だったのだろうと思いました。

中国茶房天山の「酢辛しそば」

事務所の近くにある中華料理屋さんですが、私がいつも食べるのはこの「酢辛しそば」。

ほとんど一本かぶりと言っても良いくらいで、ほかのものを食べた記憶がありません(ほかのもおいしいらしいのですが)。

麺の上に麻婆豆腐風の豆腐の餡ががかかっているので一見すると麻婆ラーメンかと思うのですが、肉が挽肉ではないのと、絹さやが入っているのがちょっと違うところ。

見た目に真っ赤なのですぐ分かりますが、ラー油がメッチャ効いていてかなり辛いです。

でも、それとスープの酸っぱさとがマッチしてあとを引くおいしさ。

いつも汗だくになりながら、スープまで完食してしまいます。

一度食べるとやみつきになる人も多いとか・・・。

私もそのクチで、しばらくすると無性に食べたくなってしまいます。そのため、お店に行くときはいつもこれ目当てになってしまい、ほかのメニューをなかなかオーダーできないのですよ。

中国茶房天山 仙台市青葉区一番町2-8-21-B1

重力ピエロ:伊坂幸太郎

伊坂幸太郎さんは仙台在住なのと東北大法学部卒業で私の後輩にあたるらしいことから(もちろん面識はありませんが)、気になる作家の1人です。

伊坂さんの文章と言えば、シビアなストーリーをスタイリッシュなタッチで深刻にせずに読ませてくれるところが持ち味ですよね。スピード感あふれる展開で、読み始めるといつもあっという間に読み終えてしまいます。

デビュー作の「オーデュボンの祈り」を読んだときは、それまで読んだことがないような斬新なタッチに「今どきの若い人の感性ってこうなのか~」と衝撃を受けたものでした。

さて、その中でも今のところ一番好きなのは、この「重力ピエロ」。

主人公は遺伝子情報を扱う会社に勤めており、このことがストーリー全体を通してちょっとした伏線になっています。

連続放火事件とその近くに現れる落書きの謎を主人公が追ううちに、意外な真実に行き着く・・・というお話です。

途中途中のエピソードがいい味付けになっていて、最後にはそれが1つに収斂して、人間の業の悲しさ、自分の力ではどうしようもない運命の残酷さといったものをしみじみと感じさせてくれます。

いつものスタイリッシュさも少し抑えめにしてあって、全編物静かに進むのですが、それがより一層物語の深みを醸し出している感じです。

ぜひご一読を。

Let it be:ザ・ビートルズ

この前、テレビで「あいのり」(好きで結構見てます)を見てたら、告白直前のいい場面でこの曲が流れてました。

始めて聞いてからもう30年近くなると思いますが、何度聞いても新鮮な気持ちにさせてくれる曲です。

不思議なもので、この曲を耳にするたびに、ずっと聞いていなかったのを久しぶりに聞いたような、でも、つい最近もどこかで耳にしたような、そんな気持ちになります。

まるでこの歌の歌詞のように、つかず離れず、ずっと自分に寄り添っていてくれるような曲です。

弁護士の仕事は壁にぶつかることも多く、迷いや悩みに包まれることも多々あります。そんなときに、知らぬ間にふっとどこからか流れてくる、そんな曲のような気がします。

そういえば、すご~く昔に、金田一耕助ものの映画(確か「悪霊島」)で、主題歌にこの歌が使われてました。

もろ「ジャパニーズ」な世界の中に、何の違和感もなく溶け込んでいた(むしろ、世界観を際だたせていた)のが子供心にもすごく印象に残っていました。

いつの時代にも歌い継がれる名曲ですね。

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